書評?「新型コロナで変わる公園の在り方」についてのメモ

技術士の二次試験の過去問を眺めていると「公園緑地について、多面的な機能を分析せよ」との問題があった。

公園について、ぼんやりと考えることはあっても、機能を分析せよ、と言われると困ってしまう。

そんな時、何気なくHPを見ていて、おもしろい記事を見つけた。

「新・公民連携最前線」第13回 緊急提言・「新型コロナ」で変わる公園の在り方

 

寄稿者は、前国土交通省都市局公園緑地・景観課長の町田誠氏である。

現在はSOWING WORKS 代表とのことだけど、SOWING WORKSが何かは知らない。

 

記事の表題は「~新型コロナで変わる~」と銘打っているけど、最後まで読んでみると、コロナでも変わらない、と言っている。

途中途中も本当に何を言っているのか分からない。

俗にいう官僚(元官僚だけど)の作る文章は分かりにくい、とよく聞くがまさにそんな感じの文章である。

しかし、何か気になる記事だった。

さらりと書いてあるけど、中々骨太な思いが詰まっているようにも感じたので、分かりにくい事もあってか、2度、3度と読んでしまった。

そういう訳で、今回はこの記事に対する書評ということで、メモりたい。

 

 

 

町田氏の持論は「公園を使い倒す」というものだったらしい。

記事の中でも「使い倒すなんて、品のない言葉を使ってるけど、そうやってでも公園の積極活用を訴える」とある。

積極的に使うとは、にぎわい形成、集客であり、現在のコロナ禍においては禁止事項に該当する。

それでも町田氏は公園を使い倒すという持論は変わらない、という。

むしろ、日常生活で全包囲的に公園を使いこなすことをさらに強く進めるべきと述べている。

 

 

20年以上前、国交省時代の町田氏は、公園の費用便益分析手法がないことから、なんとか公園の価値を計測しようとしたらしい。

その手法は2つの方法をハイブリッドさせるというもの。

1つ目は、直接利用価値

これは、公園利用に伴う価値は旅行費用法を用いたそうだ。

2つ目は、間接利用価値

これは、存在価値ともいうもので、公園の対価としての世帯ごとの支払い意思額をベースにした効用関数法を用いたらしい。

 

ここで、少し調べたい。

まず、現在は公園の費用便益分析手法は確立しているのか?

調べてみた結果、国交省のHPには「都市公園等事業の費用対効果分析について」と掲載されていた。

少し見ていきたい。

直接利用価値と間接利用価値は読んでそのまま。

直接利用価値の方は、健康増進、レクリエーション、心理的な潤い、教育の場、文化的活動の場として利用する価値

間接利用価値の方は、緑地保全、動植物、ヒートアイランド、都市景観、火災延焼防止、避難地確保、復旧活動拠点など

避難地確保や復旧活動拠点は直接利用価値にも見えるけど、いざというときなので、日常使いではないことで、存在価値としているのだろう。

こうしてみると、町田氏の20年前に検討していた方向で、公園の費用便益分析は進んできた、ということだろう。

 

そして基本はB/Cによる計測を行う。

B(Benefit)は、直接利用価値は旅行費用法を用い、間接利用価値は効用関数法を用いる。

旅行費用法とは、旅行費用を支払っても公園を利用したいとする価値。

効用関数法とは、公園が存在することで環境、防災、景観に資する価値。

 

次にC(Cost)は、用地費や整備費などの事業費と、維持管理費を足し合わせたものとなる。

 

さて、旅行費用とは、読んだまま。

交通費などを含んだ公園に出かけるために費やす費用のこと。

この費用は公園に行くためにかけるお金なので、それだけの価値を認めていることになる、という考え方。

移動料金、公園利用料、移動時間や所要時間の貨幣換算などにより算出する。

 

少しややこしくなるけど、ここで、消費者余剰というものを算出して、それを直接利用効果としている。

消費者余剰について簡単に。

まず、利用者数と旅行費用をそれぞれX軸、Y軸として、関数で表示する。

すると、旅行費用が安くなればなるほど旅行者数は多くなる。これは市場原理。

これを旅行費用と訪問回数のデータから右下下がりの関数を設定する。

そして、実際に支払った旅行費用(移動料金、公園利用料、移動時間や所要時間の貨幣換算)と関数上にある想定される最大旅行費用との差分の∑が消費者余剰である。

この消費者余剰を直接利用価値としている。

 

次に、効用関数法である。

これは、環境や景観、防災に役立つことに対する満足度を貨幣価値化する、というもの。

この効用を関数化する方法は、公園面積と公園までの距離と防災拠点の有無の和で計算される。

つまり、広ければ広いほど、近ければ近いほど、防災拠点が近くになければないほど、効用関数の解は高くなることを表している。

 

最後に、便益は50年間にわたって発揮されるものとして算出されるようだ。

もちろん、B/Cなので、数値が1以上であればBenefitの方が上回るので、整備効果がある、ということになる。

 

少し長くなったけど、現在はこのような方法で公園整備についての費用便益分析を行っているらしい。

もっとも、近隣にある小さな街区公園や地区公園を整備する場合、このような分析をどこまでやっているのかは疑わしい。

 

 

話を町田氏の記事に戻す。

令和2年5月29日の記事らしいので、6月28日現在の自粛解除の今の状況とは違うことを念頭に読み進めたい。

町田氏は、当時の状況を「感染症のリスク」とトレードオフという表現で「経済的なリスク」について、このどちらもが社会にしっかりと説明されない状況のまま、個人の経済リスクがどこまで大きくなるか見通せず、コロナ対策が実施されている、と表現している。

ここから、政権批判に続くのかと思うとそうはならない。

これらは、感染症のリスクが不明である以上、そして具体的な対策が行政の判断の結果である以上、社会の一般の人は受け入れざるを得ないと述べている。

ここは、ホリエモンなどと違い、大人の対応という感じを受ける。もちろん、悪い意味ではない。

ただし、ぼくはホリエモンの考えが正しいと思っている。

 

 

この状況下で公園の専門家が果たす役割を述べている。

とても文書が長く難しい。さすが国の元役人である。

1 感染症の専門的見地から発表されるリスクにかかる情報を勘案して行政により対策が決定される。

2 その対策の中に、公園の特性を踏まえた具体的措置を盛り込むべきである。

3 あとは、総合的な対策を講ずる一員として、期待される役割を確実に果たす。

この文章を読むと、国交省の公園部局の後輩たちに向けた言葉のようにもみえる。

公園をなぜ閉鎖しなければいけないのか?そして、全体的な対策が政府から発表された中でしか泳げないが、それでも、その中で専門家としての公園の特性を踏まえた措置を盛り込みなさい、というメッセージに見えた。

明らかにやりすぎだ、と感じながら職務を執行する職員に向け、「やりすぎだ」と、そう感じることは間違っている、と述べているようで、この辺りは、役人としてのかなり高度な感覚にならないと、難しいのではないか、と思った。

 

後、3密を避ける、という方針が出されれば、それだけで適切な対応ができる姿勢を貫くべきと述べている。

この辺りは意味が分からなかった。

このあたりの微妙なところは、意図的に言葉足らずで表現しているようで、ぼくはズルいとも思った。

後に、一時期、屋外の公園が賑わい始めて、公園ってやっぱりすばらしい、という論調に公園の専門家も乗っていたことに警笛を鳴らす。

その後の公園閉鎖は容易に想像できることだからである、という。

また、コロナによって公園の需要や必要性が見出されても、公園の社会的価値の向上にはつながらない、という。

これはぼくも同様に考えていた。

なぜなら、結局、消去法的選択の結果であり、価値が見直された訳ではない、と思っていたから。

コロナが治まれば、また捨てられる運命にあるから。

そのため、町田氏は、このような形で公園の価値を見出しても、ユーザーに選択されない。

ユーザーの支払い意思額が積みあがっていかない、と断定している。

ユーザーは価値の本質を見抜いている、とも。

つまり、今の公園はユーザーに本当の意味で選ばれる存在になっていない、ということを言いたいのだろう。

 

 

町田氏は、人が集まるという理由で花を刈り取る作業も致し方のないことだと述べている。

なぜなら、3密回避が原点だから。

その3密回避を原点としつつ、町田氏ならではの公園専門家としての行動規範は以下のとおりらしい。

・公園不利用によるリスクがあること

・それは、閉じこもることによる健康上のリスク、ストレス増加によるメンタル面のリスク

・これらを数値化できないが、これらは確実に存在するリスクとして、その前提で可能な限り公園が利用できる状態に置くことが目標とする

・それを目標に、自らの行動規範を置くこと。

 

これらをまとめると、3密回避の方針が出された以上、公園閉鎖は致し方ないこと。

しかし、トレードオフの関係にあるリスクが存在する以上、いつでも公園利用が再開できるよう準備しておけ。

ということだろう。

具体的に述べているが、遊具はやはり感染のリスクを避けられない。

だから、遊具の利用停止は仕方ない。

しかし、対策が取れるなら、遊具利用を継続すべき、と述べている。

 

 

ぼくは、とにかく手堅い人だな、という印象を受けた。

遊具利用停止は仕方ないと言いながら、対策が取れるなら利用継続すべきといいつつ、花の刈り取りは仕方ないといったり、健康リスクを持ち出してみたり、とにかく自分の中では一貫した方針があるのかもしれないが、一般人には伝わらない。

変幻自在に動けるようにするという筋を持て、ということかもしれないが、変幻自在というのは、一歩間違えれば筋がないのと同じで、その紙一重の状況を常に歩き続けていても、一般人には、それが筋があるようには見えない。

もちろん、政府の発表があり、過激なネタを探しているマスメディアがあり、自粛警察なる国民の目があるなか、自分の思いだけで行動できないのは分かるので、このような文章の中に、自らの筋を通しているのだろうけど、やっぱり分かりにくい。

 

 

さらに、国際的な非営利組織「世界都市公園会議(WUP:World Urban Parks)」の会長の声明文を引き合いに出しているが、このあたりは、官僚答弁になっていて、とても理解しにくい。

公園を解放すべきかすべきでないのかを、行ったり来たりしていて、読んでいて疲れてくる。

言葉を慎重に選んでいるのだろうが、とにかく分かりにくい。

 

 

次に、不要不急論に入る。

町田氏がおそらく国交省の役人時代、社会資本整備重点計画に公園施策を位置付けようとしたものの、多くのカテゴリーでは位置づけてもらえなかったことがあったらしい。

それは、道路や河川、港湾と比べて、機能や効果がエビデンス的に示しづらい特性があることが原因だという。

 

今回、コロナ禍においてあぶり出された問題というのは、現在の公園の利用が限定的な目的でしか、局所的なにぎわいしか作り出せていない、ということである、と町田氏はいう。

公園という空間が、人々の生活活動時間の断片しか受けいれていないから、見ごろを迎える花の刈り取りや遊具閉鎖がクローズアップされてしまうのだという。

ぼくは疑問が出た。

町田氏が唱える「公園を使い倒す」ことが実行されていれば、花の刈り取りや遊具閉鎖だけがクローズアップされることはなかっただろう、ということか?

または、人々にとってなくてはならない存在として認められていれば、閉鎖という憂き目には合わなかったはずだ、と言いたいのか?

そこはこの文章からは読み取れない。

 

 

町田氏のいう「全方位的に生活活動、時間を受けいれる」とはどういうことか?

特定の目的がなくても、今日は一日、公園に行く、ということに現在の公園は耐えられる装置を持っているか?と投げかけている。

そのレベルにははるかに到達していない、と町田氏はいう。

その理由。

・公園にキャッチボールに行く

・公園に犬の散歩に行く

・公園でMTBのトレイルをする

・テントを張ってピクニックをする

これらの行為を公園側自らが拒絶しているからだ、という。

 

しかし、ぼくはまた疑問。キャッチボールも犬の散歩もしているぞ、と。

あれは禁止行為なのに、やってる違法行為?

公園によるのか?

まあ、そこは分からないので置いておこう。

 

あと、移動式ベンチなども管理が大変と公園側は言うが、管理が大変なのは当たり前だと、叱責している。

ぼくも町田氏に同感。

さらに、特定のユーザーだけが利用する公園や、特定のヘビーなコミットメントに応じて禁止行為が増えていくような公園から脱却すべきである、と。

さらに同意したい。

 

町田氏は続ける。

国内の公園の面積は、国民1人あたり10m2以上の面積に該当するらしい。

だから、距離的な偏在を無視すれば、日本中の国民が道路やオフィスから全て公園に集まったとしても、それを支えるだけの量を満たしているのだとか。

だから、もっと多くの人を迎え入れる底力を持っているのだと。

公園が目指すべきは、ソーシャル・キャピタルの形成を促す時間消費型社会資本となっていくこと、と提言している。

 

 

ここで、難しい言葉が出たので、すこしメモ。

ソーシャルキャピタル

これは、直訳すれば社会的な資本、となる。

しかし、いわゆる社会資本つまり、インフラ、つまり、一般的にいう道路、河川、港湾とは、ここでいうソーシャルキャピタルは、少し意味合いが違う。

社会の信頼関係、社会の規範、社会のネットワーク。そのような社会組織の在り方をソーシャルキャピタル、というらしい。

難しい言葉。概念的なもの、という理解かな・・・。

 

 

つまり、町田氏が公園に求めるものは

社会の信頼関係やネットワークといった関係を作り上げていくために使われるインフラ。

それも時間消費型のインフラ。

所得消費型ではなく時間をいかにかけて過ごしてもらうか。

目的があって公園に来て、目的が終われば帰る。ではない。

あてもなく公園にふらっと寄り、いつのまにか心地良い時間が過ぎていく。

そして、そのような場が社会の信頼関係構築やネットワークづくりの場となっている。

室内に居られないから、公園に行く、というパッシブ(受動的)な価値ではない。

社会やコミュニティが豊かである、という状態とは、ソーシャルキャピタルが高く保たれている状態で、そのような状態を形成するための社会資本が公園であるのだらから、そこのところをよく意識して、公園の在り方を考えていきたい、と締めている。

 

 

途中、途中、わかりづらい文章表現もあったけど、ぼくは感動した。

徹底的にユーザー視点に立ち、より良い社会を作るために、公園の専門家として何をすべきかを分析しているんだな、と感じた。

確かに、公園って最近行かなくなったなと。

子供がほんとに小さい時は一緒にキャッチボールやサッカーボールで遊んでいたんだけど、その目的がなくなれば行かなくなった。

イスを持って読書に行くってことやっても良いけど・・・これからは暑くなりそうだし、蚊も出そうだし。

パソコンを持ってブログを書く・・・机がないしな。

んー、確かに、座り心地の良いイスに腰掛け、暑いさなかでも、日よけのパラソルがあって、冷たいカフェオレなんかがあれば、読書しても良いかも。

ビールがあれば、イヤホンでお気に入りの曲をかけて、子供らが遊ぶのを見ているのも贅沢な時間かもしれない。

そういれば、近所の喫茶店のテラス席には、どの喫茶店でも、たいてい外国人が座っている。

きっと、外国には公園で居心地よく楽しめるだけの整備がされていて、公園でコーヒーを飲むことの「良さ」を楽しむ文化が育っているのだろう。

だから、日本に来ても、どこか居心地の良い喫茶店を探して、そこでの時間を楽しむ。

そう、時間消費型の喫茶店の楽しみ方を知っているのだろう。

だったら、公園に喫茶店がくっつくことの意味って、やっぱり大きいんだな、と今更ながらに思った。

どこもかしこも、〇〇の一つ覚えのように公園に喫茶店を作って芸がないな~と思ったけど、本質を理解していないのはぼくの方だったかもしれない。

 

 

今回は何気なく見つけた記事から、けっこう深いところまで思考を進めることができた。

良かった良かった。

 

 

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